Wednesday, July 06, 2005

二つのウィキニュース

いつものように朝のRCパトロールに出ると、友人のWikinewsieが珍しくMetaで編集していたので、ちょっと覗いてみた。

英語のWikinewsのテストページだった。

Simple English のように、表現の違いというわけでもないらしい。むしろ記事の書き方のアプローチや投稿者層の設定が違うようだった。正直、これはForkなんではないだろうか。

な んでまた、と思ったのは私だけではなかったようで、すでにTalkにこれは何のまねかと質問が来ていた。ちょうどIRCにその彼が接続してきたの で「あなたのテストページ、これForkとどこが違うのん」とぶしつけにきいてみた。(だが後で「たのむ、戻ってきてくれ」と嘆願する人がいたくらいなの で、Folkなのか、 という疑問は私だけのものではなかったようだ)。いまのWikinewsとは別に、もっと気軽に新しい人が入ってこられるようなものをやるのだ、という。 現在のWikinewsが国際版だとすると、地方版のようなものなの、と訊くと、そのようなものだ、という。

確 かにいまのWikinewsは新規参入者にはやや敷居が高い。それに飽き足らないというのは彼の開放的なな方向性を考え合わせると納得できるものがある。 お互いが支えあう形でオルタナティヴを創れるのなら、それはお互いにとってよいことになる可能性はあるだろう、そう思った。 そしてこの「開かれたWikinews」構想に賛同する人もすぐに出てきた。だが現在の方向性を支持している、というより、それを邁進してきた人の中に は、納まらない人もいたら しい。そのうちの一人が、それを意見の上での対立というふうには捉えず、これは俺に対する個人攻撃だ、というようなことを言い出した。

正 直、過剰反応なんじゃないか、と思う。だけど、気持ちはわからないことはない。自分に確固たる方向性があってなにかをしているときに、異議を唱えられると いうのを、喜んで聞くというのは難しい。……そして、 Wikinewsは最近なんだががさがさしていて、昨日もSysopの解任動議(しかもこれが3RRがらみだという)が出たばかりなのだ。そうして、 3RRの執行をした管理者もとばっちりで、あれこれ非難されているらしい。なので、反発したほうは、たん に虫の居所が悪かったんだろう、という気もしないではない。とにかく起源の悪いこと、手のつけようがない。しかし、私は「君、本気でそんなことを考えてる んじゃないよね」なんていうことを面といえるほどそちらの人 とは親しい友達でもないので、特に何をいうのでもなく、放っておいた。メタでやっている以上人目もあるし、さらにFoundaiton-lに飛び火したと かしないとかいう話もあるし、それならなお さら誰かが介入するだろう。多少無責任かもしれないが、そう思った。

友達がけんかしている、 というのはあまりよい気持ちのするものではない。だが、板ばさみになって困っているというわけでもないし(そうして、そうなった場合はなおさら何もできな いという話はあるがそれはさておく)、自分がさしてアクティヴでもないプロジェクトの内 紛に事情がわからないのに介入するというのは、かなり無謀なことでもある。頼まれたというわけでもないし、そして英語版Wikinewsには確か20人近 く管理者がいって、コミュニティの規模でいったらちょっとしたウィキペディアにも遜色がないくらいなのだ。私がしゃしゃり出ても、とくにできることはない だろう、とその場では判断した。

……けれど、実は、その場で介入したほうがよかったのかもしれない。数時間後になって、俺はこれこれこう 非難されているけども、これはほん とに妥当するのか、俺がいったことはそんなにひど いことなのか、できたら意見をきかせてください、と片方の当事者からメッセージがきていた。自分の経験からいって、こういう訴えをコミュニティの外にする ときは、たいてい物事はこじれにこじれている。あるいはいった本人は外とは思っていないのかもしれない:メタの上のことだと考えれば、私に意見を求めると いうのはそれほど不思議なことではないだろう。……そうであることを期待する。

総じて、内輪もめというのは傍からみれば「放ってお けばすむことなのに」と思われなくもないが、当事者にとってそれはとても難しい。そのことはわかっている、だから、それはあえていわない。ただ、この ちょっと した意見の違いが、感情のもつれになり、という経緯は、いつか日本語版ウィキペディアであったもろもろの対立(とそれでプロジェクトを去っていった人)、 あるいはドイツ語版から離れていったWikiweise(とその関係者たちの間の微妙な心理的な距離)といったことを思わせるに十分で、そこにすこし不安 もある。そこのプロジェクトで一番活発なところ、たいていの場合は英語プロジェクトが弱体化しているときには、そのプロジェクト全体のポテンシャルが落ち る。その意味でも、英語版が割れるというのはあまりよいことではないのだが。。

そして、プロジェクトの趨勢ということととは別に、なによ りも、彼のようなとてもよい人をそのような感情的な対立で失うことがなければよいと願う。私があ るローカルプロジェクトで四苦八苦していたときに、小石にせき止められることのない河の流れのように堂々としていればよいのだ、という言葉を贈ってくれた のは彼だった。とりあえず、ここで第三者である私が動揺しても何にもならないので、落ち着いてみる、テスト。

雨ふって地固まる、となるのを祈っている。

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